日本人が勘定高いというとびっくりされるかも知れませんね。でも、外から日本人をみるとこれほど様々な行為をお金に換算している国民というのは世界中でも珍しいと思います。もちろん悪い意味ではなくて恩に報いたいという素直な気持ちから出ている行為ではあるのでしょうがね。
お金儲けに熱心なことでは中国人が世界的に有名ですが、彼らでも仲間にご馳走するときは金に糸目を付けないという慣習があります。日本人の場合は、前回は誰それがいくら払ったからなどということを一生懸命に考えたりしていますね。それが面倒なので割り勘という最終手段に頼ったりすることになります。
中国や東南アジア、いやアジア全体ではこの割り勘というのは非常に野暮に映っているようです。仲間うちでは払う人がごく自然に出てきて、通算すればなんとなくバランスがとれるというものなんです。割り勘の際、みんなで財布からお金を出している姿を美しいと思わない感受性があるようです。ということで私は面倒な割り勘が嫌いだし、煩わしさを避けるためなら全部払ってしまいそうです。これは中国人の友人の影響でしょう。
バンコクにある国際機関で働いていた時、私は中国人の友人のなけなしの収入を知っていたため、一緒に食事をするときには当然ながら私が多くの回数をご馳走していました。それでも彼は心苦しいのでしょう、負けないぞとご馳走しようとする姿勢には感動したものです。しかも彼の姿勢というのは決して見栄ではなく、心からご馳走したいというのが見えるんです。だから中国料理のレストランに行った時には遠慮なくご馳走になったものです。心からもてなしたいという気持ちが表れていて本当に気持ちのいいものでした。
バンコクの前、マレイシアにいた時に中国系マレイシア人にご馳走になったことがあります。彼がチャイナタウンを案内してくれて、その上美味しい料理をご馳走してくれたのです。そして二回目に会ったときに、私がこの前のお返しに是非ご馳走させてくださいと申し出たら、お返しならいりませんときっぱり断られたのには驚きました。「お返しとしてではなく、心からご馳走したいということなら」というニュアンスを感じ、私は素直に謝りました。あー、これがもてなしということなのかと教えてもらった気がします。お返しでは気持ちがいまひとつ伝わりませんね。しかも前回の彼の心からのもてなしをドライに受け止めていたというように誤解されたとしたら悲しいですね。いや、恥ずかしい。
なんでもお金というのは、香典帳しかり、祝儀ももちろん、日本人というのは何でも金額を几帳面に覚えていてバランスをとろうとします。細かいといえば細かいし、本来気持ちから出るもののはずが損得勘定につながってしまうというのが悲しいところです。形式、習慣を重視するあまりに本来の心が忘れ去られてしまったような気がしないでもありません。
文化水準が進んでいると言えばそうなのでしょうが、日本では人間の命や名誉毀損に至るまでその金額が存在するようです。そして、職場の仲間の親族が死んだとなれば、いくらいくらと決まっていて、親戚の中では年長者が一番多額あるべしなどという決まりがあります。年長者となると現役を引退していて、年金暮らしの人もいるので、この決まりを守るのは大変なんですが、そんなことはまず顧みられないようです。それよりお返しという概念が優先するのでしょう。
イラン人でもこういう金額に関しては無頓着ではないようです。少なく返せないという考えがあって日本人と同様に記録しているようです。これは特に葬式や結婚式の場合だと思います。これはアジアに共通する概念ですが、それにしても日本人はあらゆることを金額に換算しているような気がします。
ところで割り勘というのは英語ではダッチマン・スタイルと言います。ダッチはオランダのことですから、英国から分離独立したオランダ人を見下して付けられた呼称だと思われます。割り勘というやり方が「せこい」という感覚は世界中にあるようです。