このテーマ、まだ考えている過程なのですが、それにしても紆余曲折していてすいません。ともあれ、都市化という問題を考えるために再び宅地開発に戻ります。
鉄道や道路というインフラの整備で長距離通勤が可能になりました。そして、スプロール現象と言われる宅地開発が進みました。ここで私が指摘したいのは、宅地開発の無秩序さです。資本主義ですから、自由な事業活動を制限するのはどうかと思いますが、結果として、不動産を買える世代というのがほとんど同じであるという問題があります。
その結果、旧市街地では学校の生徒数が減り、新興住宅地では急激に生徒の数が増えます。義務教育だからと言って、行政側はどんどん学校を新設します。そして、ほとんど同世代の子供たちが卒業すれば、学校の生徒数は減少してしまいます。
こういう大きな目でみた上で、宅地開発のコントロールということができないのでしょうか。管理社会のような日本ですが、ここまで大きなテーマだと施策を講じることは難しいようです。住宅地の購入層を世代別に割り振るとか、できることはあったと思うのですが、残念ながら実行はされていないですね。
事業家は、世代のニーズに合わせて事業展開しますから、ちょっと前からシルバータウンなんて開発が計画されたりしています。私の個人的な見解としては、お年寄りだけが住む街なんてちょっと耐えられませんけどね。どこの地域でもいろいろな世代が一緒になって生活しているというのが望ましい姿だと思っています。
木造家屋の寿命は30年と言われますが、修理したりして使っていれば、50年は持つものでしょう。半世紀という長いスパンでは、宅地開発で住み着いた人たちの世代は少しはバラつくでしょうから、もっと長い目でみれば、住んでいる人の世代はバラバラになっていくというものでしょうか。
ともあれ、新興住宅地、長距離通勤ということで、地域社会が田舎のそれとはずい分違って来ていると思います。都市部の集合住宅では、自治体活動というものはあるのでしょうが、基本的には隣の人がなにをしているのか知らないという実態もあることと思います。
住んでいる人が死んでしまっても、1週間も気がつかれないというのも現代日本の表れでしょう。マスコミは、「孤独死」という言葉を使っていますね。人々の物理的距離は近いけど、精神的距離はどんどん遠ざかっていると言えるかも知れません。
まさにタイ人の友人が指摘した、「コミュニケーションの欠如」という問題だと思います。田舎では誰が何をしているのか、直ぐに知られてしまうものです。「東京砂漠」なんて歌がありましたが、都市部では、精神的に砂漠化しているのかも知れません。つながりのない人たちにスマイルをみせる必要はないのでしょう、田舎にあるスマイルによるコミュニケーションは都市部では風化してしまったのではないでしょうか。
そこに持って来て、マニュアル人間の登場ですから、人の心はますます不毛になってしまうとしたものではないでしょうか。周囲はすべてロボット、自分と家族だけが生きている空間なんて考えただけでもぞっとします。人間らしい話をするためには、友人を訪ねていかないといけない、あるいはインターネットで知り合った友人とネットの上だけでの会話で満足するとか・・・ 困った世の中になって来たようです。